単純にいい詩だと思った

2017/ 10/ 22
                 
ある機関誌のエッセイで、宮本輝氏の紹介する詩を読んだ
エミリ・ディキンスンというアメリカの女性詩人のその詩が
妙に心に響いた


もし私が一人の生命の苦しみを和らげ
一人の苦痛をさますことができるなら
気を失った駒鳥を
巣に戻すことができるなら
私の生きるのは無駄ではない




宮本氏はこの詩についてこう書いている
「安直に読めば、慈善事業を奨励して、聖人のように生きよと
訓示しているかに受け取る人もいるだろうが、そうではない。」
「生きるに値する行為とは何か。持って死ねるものとは何か。
この詩は、読む人にその究極の本質を明示している。」


訓示とか、究極の本質の明示とか
難しいことまでは思い至らない
そんな読みの浅い私だが
ごくごくシンプルに、単純に、
いい詩だな、と感じた


自分の身近な小さな範囲で
誰かたった一人にでも
どんなにささやかなことでも
何か役に立つことがあれば
それだけで生きてる意味がある


私はそんな意味のいい詩だと思った


                 
        

チョコレートラテ

2017/ 10/ 21
                 
また週末がやってきた

今週は色々と用事が片付いたし
友達とも会えた
なかなかいい週だった

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ここのカフェのラテは美味しい
昨日も仕事帰りに落ち合った友人と
軽食とラテでほっこりした


このカフェは夫の病院と家の途中にある
一昨年の秋、夫の術後の日々はひっちゃかめっちゃかだった
なんだかんだでヨレヨレに疲れたある夜、
病院からの帰り道に、娘と二人で初めて寄ってみた
夜だというのに二人とも全く食欲がなく
せめて何か飲み物を、と思ったのだ


ふだん甘い飲み物はほとんど飲まないのだが
ふと気づけばチョコレートラテを注文していた

そのラテの美味しかったこと
疲れた心に寄り添ってくれるようなその甘さに
何だか救われたような気がした


本当にあの頃は大変だったな、ってしみじみ思う
なんか大変、大変って陰気なことばかり書いてるけど
悲しいかなそれが現実なんだから仕方ない

そして、その延長にある今日という日も
明日以降も、きっとまだまだ大変なんだと思う


それでも、陰気なりにも
ささやかな幸せを感じる時もある
例えば一杯のラテ
そうやって人生は続いていくわけなのだ



                 
        

道すがら

2017/ 10/ 18
                 
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今日は公休を利用して
なかなか行けない遠方の銀行と
地方法務局に行った
どちらも夫関係の用事だ


道すがら転院できた時のことを考える
障害者病棟ってどんなところなんだろう
分からないことだらけだが
不思議と不安はない


せっかく行った法務局の方は
用意して行った書類が不足していて
用が足せなかった
残念、もう一回やり直しだ
まぁいいや、
また行けばいい
がっかりすることに慣れっこな私だ


帰りに夫の病院にまわった

4人部屋の窓際で夫は眠っていた
ドア側のベットが2つ空いている
月曜日には満床だったのに

命の現場は日々目まぐるしい
静かに眠りこける夫のまわりだけ
なんだか時間が止まっているようだ

空いたベットにはきっとまた
すぐに新しい患者が入るのだろう




                 
        

雨の日曜日

2017/ 10/ 15
                 
せっかくのいい季節なのに
今日は一日中雨降りだった

病院からの帰り道、車はいつも以上の渋滞で
家に帰りついた頃、あたりはすっかり真っ暗に。
冷たい雨と日暮れの組み合わせに
じんわりと秋の寂しさを感じる


リビングの電気をつけると、
朝のうちに空きビンにさしておいたバラが
おかえり、といってくれた
やっぱり花はいい


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夫が入院してから2年が過ぎた
転院したり戻ったり、あっちにこっちにと
私の病院通いももう2年

夫の病状に一喜一憂しながらの日々
失ったものはとてつもなく大きいが
それでもそれほど打ちのめされているわけでもない

なんてことをしゃらんと書けるほど
時間が過ぎたんだなぁと思う


実は冬を待たずに、家から近い病院に
転院出来るかもしれない

ぬか喜びになったらイヤだけど
久しぶりにちょこっと嬉しい気分だ


心の底には子供の問題が暗く張り付いたままだけど
それも時間にうまいこと乗っかって乗り越えていくしかない

とりあえず、はぁーーと大きくため息ひとつ

さぁ、また明日からがんばろう



                 
        

オキザリスが咲いている

2017/ 10/ 11
                 
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もうどれくらい前だったか思い出せない
とにかくずっとずっと何年も前
知人から貰ったオキザリスの球根を
バラバラと庭に植え付けた

その後は、秋になるとまるで約束したように
ピンク色の花を見せてくれる
全然世話はしていないのだが丈夫な花だ

だが、いかんせんその姿はきわめて地味だ
群生で咲いていても、どうにかすると
たった一輪の薔薇に負けてしまう

せっかくがんばって咲いているのに
なんだか損な花だ

かくいう私の人生も損が多いかもしれない

でも人生を損得で言いきってしまうのは
ちょっと悲しい




障害状態がほぼ固定してしまった夫は
急性期病院から療養型病院へ転院しなければならない
具体的な転院先を検討し始めたところだ

今日は候補の病院のひとつをお訪ねして
説明を受けてきた

医師もソーシャルワーカーさんも看護師さんも
みなさんとても丁寧に説明してくださり
ありがたかった


今私は、あちこちで頭を下げることが多い
ありがとうございます、とか
よろしくお願いします、とか
感謝の思いで深々と下げることも多い

人として当たり前のそんなこと
以前の私はできていたんだろうか

オキザリスを見ながらぼんやり考える





                 
        

10月

2017/ 10/ 08
                 
秋はいい季節だ

夏以降、色々なことがありすぎて
結構悲惨な日々だった
大問題の夫のことがようやく一段落、と思ったところで
今度は子供に問題が…

まだまだ解決には時間がかかりそうなのだが
翻弄されるばかりの日々にもさすがに疲れてきた

ここらでそろそろひと休み
だからまたこの場所に帰ってきた

心の糸はボロボロだけど
それでも簡単には切れないものだ
そのことには自分でも驚いている


爽やかに漂う秋バラの香りが
秋の到来を知らせてくれた

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次に行きますかね

2017/ 07/ 08
                 
主治医に障害固定の診断書を書いてもらった
ついに夫も福祉のお世話になることになった

寝たきりで一人では何もできない夫だが
いざ障害者として認定されることに
私はいささかの戸惑いと悲しさを感じている

決して障害というものに対する差別の心ではない
けれど、何だろう
これまで長い闘病生活を送るなかで、そのある時期まで
夫はもっと良くなる、確実にそう願い信じていたので
それが叶わなかったという意味での悲しさだ

「回復の可能性なし」
そう書かれた診断書を前に
自分の中でひとつの戦いが終わった気分だ

戦いが終わったことで、
私の中の前を睨みつけるような闘志が消えた
それと同時に過去の夫への憎しみまで消えてしまった

夫を憎むことで前に進めていたのだとしたら
何とも皮肉な話なのだが



最近は病院に向かう車の中で、夫のことを思うと
かわいそうで泣けてくる

これまで大きな手術を幾度も受け
2年近くの時間、闘病を続けてきた
それでももう人並みに生きることが出来ない

夫の異常行動にはさんざん苦しめられたので
きっとバチがあったったんだ、
病室に横たわる夫を見下ろしながら
冷ややかにそう思ったこともある
何度もある


けれど、もし本当にバチがあったんだとしたら
神様、もうそろそろいいんではないですか…
最近はそんなふうに思う

これまでは夫への憎しみで突き動かされてきたし
思い出すのも嫌なことばかりだった

それなのに、最近は楽しかったことなどを
思い出すようになってしまった
そんなことも結構あったのだということに驚く


様々な思いがミルフィーユのように重なっている
嫌なこと、辛かったこと、
上の方にはそんな層がカチカチに固まっていて
下の方にある思いまで全然たどり着けない
自分の心の中をずっとそうイメージしていた
カチカチだった上の層がいつの間にか溶けてしまったようだ



休みの日、夫と出かけたついでに
よく立ち寄ったスーパーがある
夫はやけにそのスーパーを気に入っていたが
私はあまり好きではなかった

夫が入院してから行ったこともなかったその店で
この頃はちゃっかり買い物をしている自分がいる
何とも不思議なものだ


なんて、何だか全てが終わったような感傷的なことを
書き連ねてみたが、夫は生きているわけで
なにも生への望みが絶たれてしまったわけでもない

次は新しいステージだ
諦めるべきところは諦めることが出来た

障害者として生きる夫に寄り添っていくこと
そして自分の人生を生きること
それが今の私に出来ることだ




6月最後の週末、バラが咲き乱れる素敵な場所へ行った

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家族の思い

2017/ 06/ 24
                 
去年の6月
夫の容態が急変した
それは、もう何度目か、という急変であったが
こればかりはさすがに慣れるということはない

この時は肺炎からの敗血症だった
髄膜炎の感染症で頭の治療を続けていたのだが
それがようやく終わり一安心したところで
今度はからだへの感染症だった

地獄に突き落とされるこの感じ
一体何度経験しただろう
どこまで打ちのめされればいいのかと
さすがの私も落ち込んだ
夫に対して実に複雑な思いを抱えつつも
「命」というものを前にするとそんな思いも
一瞬にして吹き飛んでしまう
(そして容態が落ち着くとまたよみがえるw)


ありがたいことにICUでの抗菌治療によって
急変を告げられた翌日には循環機能が持ち直し
腎臓へのダメージも回避できた

ホッと一息、この日はとても嬉しくて
ICU帰りに娘のお土産にとケーキを買って帰った
去年の6月8日のことだ

その日の夕方、海老蔵さんの会見をニュースで見る
進行がんの奥さんの入院が1年8ヶ月になると語っていた
病人を抱える家族の苦しみが、その淡々とした口調から
痛いほど伝わってきて、泣けた

人の辛さを自分と比較するなんてよくないことだと思いつつ
海老蔵さんは1年8ヶ月、私はまだまだ8ヶ月
自分より長く苦しみつつ頑張る人の姿を見て
当時の私は激しく勇気づけられた

心を突き動かされるほど元気が湧いてきて
そのまま庭に出て数週間ぶりにバラを撮ったことを思い出す


たまたま前の年に、友達の付き合いで
海老蔵さんの「源氏物語」の特別公演を観に行っていた
客席を歩いてくれたので、手が届くくらいの位置で
源氏姿の海老蔵さんを観たのだが、特にファンでもなかったし
正直なところ感動の嵐、とまではいかなかった

だが、この時のテレビの会見には本当に感動してしまった
なんだかこれって皮肉な気がするのだが


ついつい自分の立場から、
家族である海老蔵さんのことばかり書いてしまったけれど
なんといっても病人の頑張りが一番
その頑張りに励まされた人がどれほど多かったことか


最後まで笑顔を忘れずに強く優しく生き抜いた小林麻央さん

ご冥福を心からお祈りいたします



                 
        

可愛いビンが捨てられない

2017/ 06/ 16
                 
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かれこれもう2年くらい断捨離をやってる
最初は確実なるゴミやガラクタを捨てていた
これってキチンと暮らしてきた人には
多分不要な工程。

うちは夫婦してダラしなかったから
この工程にとても時間がかかってる
ずい分がんばって片付けてきたつもりでも
捨て去るべきものがまだたくさん残っている


一度片付けたつもりのところを
あらためて見直してみる
あらまぁ。
あちこちに未練のカケラたちが散らばっている

断捨離には根気と時間が必要だな〜としみじみ思う

昨夜は、食器棚の戸棚の一箇所を見直してみた
お菓子作りの道具アレコレと空き瓶を入れてある
数ヶ月ほど前にかなり処分したつもりだったが
まだやたら多くの空き瓶が並んでいた
いつか使う…
でもそのいつかがやってこないんだよね
思い切って大半を捨てることにした
だけど、いくつかの小さなビンが捨てられない
未練だなぁ

その他に、
スポンジケーキ、パウンドケーキ、パイの焼き型
ご丁寧にどれも二つずつ持っていたので
各々一つずつを捨てることにした
子供たちが小さい頃には大活躍したけど
今はもうあまり使わない


人生のあれこれ、色んなこと削ぎ落として生きよう
そう思ってはいるけれど
「もうお菓子なんか作らない、全部捨てちゃえ」
なかなかそこまで思いきれない

これは未練なのか、
はたまたかすかに残るやる気なのか
自分でもよく分からない

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ゆるす ということ

2017/ 06/ 12
                 
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許すということはなかなか難しい

夫は頭の病気なんだから。
あんなこと、こんなこと
夫のしてきた奇行、愚行の数々は
全て病気のせいなんだから。

一生懸命そう思おうとしたけれど
ムリだった

そんな許すことの出来ない相手が
寝たきりの病人になってしまった
もう夫の側から離れることもできないけれど
かと言って許すこともできない

許すことができたらどんなに楽になるだろう
ずっとそう思ってきた

でも許すということはなかなか難しいのだ



先日の本の話の続きになるのだが
『日本の言葉の由来を愛おしむ』という本の中に
「ゆるす」という言葉について書かれたページがあった

「ゆるすことは難しいことです」
そう始まる2ぺージの文章
自分の思いと重なる言葉が嬉しかった


「ゆるす」というと「許す」や「赦す」の漢字が頭に浮かんで
「百パーセント承認する」ことを迫られているように思う。

でも日本語の「ゆるす」は心を「ゆるめる」こと。
ぎゅっと絞っていた心の入り口を少しゆるくする、
そんな心の広げ方が本来の「ゆるす」の意味です。

語源をたどれば「ゆる」は「ゆるキャラ」や「ゆるめる」と同じ。
「ゆるす」とは「ゆるい」状態にすることなのです。
(本文より)



分かりやすく優しい文章が心に響いた
ずっとずっと許さなければ、そう思ってきたけれど
少し肩の荷物が軽くなったような気がした



これまで心理の本とか禅の本とか
「ゆるすこと」に関するものを何冊か読んだけれど、
正直あまり心に響くものはなかった

不要なものを手放しなさい、
見方を変えなさい、
あるがままを受け入れなさい、
過去でも未来でもない今を生きなさい、
私の読んだ本には、概ねそんな言葉が並んでいたような気がする
それは分かる。だけどそれが出来ないんだから。


『日本の言葉の由来を愛おしむ』の中の
シンプルな2ぺージに出会えて良かったと思う

心の入り口をゆるめる
「許す」ではなく「ゆるす」

心の中でそっとイメージしてみる